四本木稲荷神社 (北区滝野川3丁目)
住所:北区滝野川3丁目
祭神:お稲荷さん(四本木稲荷大神)なのでしょうが、詳細はよくわかりませんでした。
境内社:二社ありましたが、詳細はわかりませんでした。
由緒:北区観光ホームページでは、以下のように紹介されています。
十条自衛隊駐屯地の東側に、稲荷公園があります。四本木稲荷社はかつてはそこにあったものです。
日露戦争のおりに、陸軍の十条兵器製造所があり、工場が拡大されたときにこの地にあった古墳も壊されました。
しばらくして火薬の爆発などの事故が何度か起き、死傷者がでました。 古墳を壊したせいではないか、ということになり、工場の人たちが社殿を造り、工場の守り神としました。
ここには4本の大木があったので四本木(よもとぎ)稲荷大明神と名付けられました。
戦後工場が解散し、現在の地に移されました。
以下、写真および雑感
神社の敷地は造兵廠の工場跡に建てられたと思われる都営アパートに囲まれるようにあります。三方道路に面し出入り口がありますが、北側のみ四本木児童遊園に隣接して仕切られています。
西側の入り口です。一番大きな道路は南側で、社殿も南面しているのですが、こちらの入り口に狐や燈籠が多くあり、「正門」のような雰囲気です。
狐は金網に囲まれています。
足を踏み入れると、木が生い茂り暗いため、荒れ果てたような印象を受けましたが、奥のほうはきれいに掃除されているようです。
すぐ右側に手水舎があります。
さらに進むと、金網に囲われた狛犬が居ます。狛犬の先で南側の入り口から来た道と合流します。
拝殿の方に進む前に南側の入り口を見てみます。こちらは飛石が参道になっています。鳥居の下の最初の飛石は、なにかの台を転用したものでしょうか?
鳥居は大正13年のもので、「陸軍造兵廠火工廠」と裏に彫られています。
南側の道路に面した部分は花壇のようになっています。
写真左下の石は、忠魂碑同様工場内で使用された設備の一部でしょうか?
鳥居をくぐると、飛石は二手に分かれています。左側は本殿へと続き、右側には境内社があります。他の方のブログなどを拝見させていただくと、左側の道にも並ぶように鳥居があったようですが、現在は台しか残っていません。
境内社です。水はありませんでしたが、小さな橋を渡ったさきに祠があります。
小さな狛犬が居ましたが、風化したのか、残念なことに大きく欠けています。
西側の入り口からの参道と合流し拝殿へ向かいます。
落ち葉は参道脇に寄せられ、敷石と苔の緑との対比がきれいです。
拝殿手前の右側には、手水舎があります。西側の入り口近くにあった水盤と同じものでしょうか?「明治四拾参年四月 銃包火具職工一同」とあり、時期も明治43年(1910年)4月で同じ、人も同じようです。
水盤の中央の紋は、東京砲兵工廠の標識である「四つの砲弾」の真中の円に稲荷の神紋を入れたもののようです。(こちらの旧日本帝国陸海軍 軍刀のサイトに造兵廠の標識について解説がありました)
拝殿は、靴のまま入れるようになっています。小さな造りで奥に棚があり、上げられた御簾の奥に本殿が見えます。
本殿です。
本殿の前には天水桶があります。狐が浮き彫りになっています。昭和10年(1935年)に圧延工場の作業員により奉納されたようです。
社殿の左側は概ね雑木林といった感じになっています。
社殿右側、手水舎の後ろには忠魂碑があります。変わった形をしています。
こちらのサイト(東京蒐集録)によると、「当時の滝野川工場で火薬を作る際に使われた圧磨盤を用いている」とのことです。大正10年(1921年)に火具製造所一同により建立されています。
社殿右側の奥にはもう一つ境内社があります。
敷地東側の出入り口には門があり、独特な耳をした狐(?)がいました。
ぐるっとまわって神社の北側に行くと、四本木児童遊園があります。こちらからみると、本殿の後ろが見えます。社殿のあるところが周囲よりやや高くなっており、昔ここが古墳であったことがうかがえます。
公園を清掃している方がおられました。
境内の様子です。
写真撮影:平成23年11月23日