上田端八幡神社 (北区田端4丁目)
住所:北区田端4丁目
祭神:品陀別命(応神天皇)
例祭日:歳旦祭 1月1日、節分追儺式 2月節分日、中祭 5月14日
夏越しの大祓式 6月25日、白鬚神社大祭 8月5日
大祭 8月4日、七五三祝祭 11月15日、年越しの大祓式 12月25日
境内社:白鬚神社、稲荷神社、大山祇神社
由緒:
八幡神社御由緒
当神社は上田端八幡神社と称され、御創建は文治年間(一一八五 八九年)と伝えられ御祭神は品陀別命(応神天皇)です。天皇は深く政治に大御心を用いられ、殖産興業を盛んにし、多数の地溝を開いて灌漑の便を計り又大船を造り交通の道を開かれ、一方、文芸を奨励された。よって天皇は厄除開運の御神徳と共に殖産興業の守護神文教の祖として崇められております。別当寺は大龍寺で、「新篇武蔵風土記稿」には、「村ノ鎮守トス」と記されており、口伝によれば源頼朝公が奥州藤原氏を討伐凱旋の帰途鎌倉八幡宮を此の地に勧請したものと伝ふ。
社務所神楽殿は戦災で焼失したが本殿は無事戦後社務所拝殿が新築され又本殿も新築されました。境内には白鬚神社・稲荷神社・大山祇神社があり、この内白鬚神社の御祭神は猿田彦神で、現在の田端中学校前の三角屋敷と俗称される所に祀られていたが、大正二年この地に御遷座になり「新篇武蔵風土記稿」には、白鬚について「伝教大師ノ作ニテ長サ五寸の神体ナリ」光明院持とある、有名な争いの杉は神木にて樹齢数百年の大木「遠クヨリ望メバ其ノ木フリ松ニ彷彿トシテ見ル者松ト云フ杉ト云ツテ争フ故」此の名ありと記されている(残念な事に今その姿なし)。当神社は人々の「ふるさと」として篤い信仰をあつめています。
境内設置石碑より。
境内の入り口に北区教育委員会による説明板があります。
村の鎮守の八幡神社 北区田端四-一八-一
現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれていました。各々の地域には、鎮守の八幡神社がまつられており、こちらの八幡神社は上田端の鎮守で大龍寺が別当寺を勤め、もう一つの八幡神社は、東覚寺が別当寺となっていました。
祭神は品陀別命(応神天皇)で、境内には稲荷神社・大山祇神社および白鬚神社がまつられています。このうち白鬚神社は、現在の田端中学校の敷地付近にあった神社で、少し離れた畑の中には、争いの杉と呼ばれる大木がありました。木の高さは二丈五尺(約八・三m)余、幹の太さは九尺(約三m)位、遠くから望むと松の木にも見えたといわれます。
そこで、奥州平泉の高館に源義経を討伐に向かう途中の畠山重忠が、これを見て家来と松の木か杉の木か争ったという伝承から争いの杉という名称で呼ばれるようになったといわれています。また、この杉は田端の三角(三岳)屋敷という場所にあり、太田道灌の争いの杉であるとの室町時代の伝承を述べる記録もあります。
このように境内の白鬚神社は、鎌倉から室町時代に関する伝承を伝えており、この伝承は村の鎮守の八幡神社と共に、北区のの中世社会を考える上で重要な資料といえます。
平成五年三月 東京都北区教育委員会
北区の観光ホームページでも上記の事柄が紹介されています。
以下、写真および雑感
この上田端八幡神社は、北区による説明にもあるとおり、田端八幡神社からそれほど遠くないところにあります。
神社に向かって右隣の坂道は、八幡坂と呼ばれています。
左側は別当寺だった真言宗大龍寺があります。
上田端神社の境内に入り、一の鳥居をくぐったすぐ右側は児童公園になっています。
参道左側には、隣の大龍寺が見え、社務所があります。
短い石段を上ると社殿があります。
こちらには白い砂が敷かれており、砂利敷きで駐車場等も兼ねる階段の下と比べ、より神域という雰囲気が出ています。
注連縄のある大きな神木があります。
狛犬は大正元年(1912年)のものです。
拝殿はそれほど大きなものでなく、また華美でもありません。しかし、まさに村の鎮守というような感じのする素朴さに好感が持てます。
拝殿前の燈籠と水盤はどちらも明治四年(1871年)の奉納のようです。
拝殿の左右から境内の奥にまわることができます。こちらは右側。
拝殿の後ろ、一段高い位置に本殿があります。
本殿の右隣には大山祇神社があります。
拝殿左側から奥にまわる道です。
こちらには、白鬚神社と稲荷神社があります。
本殿です。
拝殿を本殿側から見たところです。
境内の様子です。
写真撮影:平成23年02月16日