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冨士神社[十条冨士塚] (北区中十条2丁目)

冨士神社[十条冨士塚] (北区中十条2丁目)
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住所:北区中十条2丁目



祭神:はっきりとした記述がないのでよくわかりませんが、富士神社なので木花咲耶姫でしょう。

例祭日:6月30日・7月1日

由緒:北区による説明板があります。
 北区指定有形民俗文化財
   十条冨士塚   北区中十条二-一四-一八
 十条冨士塚は、十条地域の人々は、江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。
 現在も、これを信仰対象として毎年六月三十日・七月一日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は、頂上の石祠を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは冨士講の信仰習俗の特徴のひとつです。
 塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、三十数基あります。銘文によれば遅くとも、天保十一年(一八四○)十月には冨士塚として利用されていたと推定されます。
 これらのうち、鳥居や頂上の石祠など十六基は明治十四年(一八八一)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の百五十回忌に当たりました、石造物の中に「冨士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。
 形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。
 平成四年三月   北区教育委員会

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北区観光ホームページにもこの神社の簡単な紹介とお冨士さん(十条冨士神社大祭)の紹介があります。


 冨士塚の下にある掲示板に、ここの冨士講についての説明が掲示されていました。長くなりますが、詳しく書かれていますので、転記します。

  丸参十条冨士講の伝統
 江戸時代半ば以後に隆盛し、江戸八百八講といわれるほど数多く誕生した冨士講は富士山を神聖視する庶民が独自に結成した信仰結社です。その教祖は、戦国時代から江戸時代初期の人とされる行者畫行藤佛です。
 畫行の素性については多くの謎が残されていますが、広く伝えられたところでは、本名を長谷川左近武邦といい、天文十年(一五四一)正月に肥前国長崎に生をうけたとされています。また、幼くして北斗星のお告げにあって神仏の導きにしたがうべきことを感得し、十八歳にして初めて諸国巡礼の旅に出たとも伝えられています。畫行が巡礼に出た理由は、終わりの見えない乱世を神仏の力で終息させ、平和を実現したいと熱願していたためです。
 ふるさと長崎を後にした畫行は、その後、常陸国茨城郡水戸や陸奥国磐前郡達谷村等を廻り、最後に富士山麓の人穴という神秘的な洞窟にいたります。そして、そこで角柱に爪立ちしての断食修行を行いつつ富士山への登拝を繰り返し、ついには冨士仙元大菩薩に化現した万物の産みの親、すなわち富士山より万民救済に要する数々の呪文や教えを授かりました。また、元和六年(一六二○)七月には、「つきたおし」という名の疫病が蔓延する江戸市中に入り、富士山から授かった呪文をもって多岐の病人を救済したのだそうです。
 さて、こうした偉業をなした畫行の法脈は、その後、日旺(黒野運平)、旺心(赤葉庄左衛門)、月旺(前野利兵衛)の順に代々継承されました。ところが、その法脈は後に二つに分かれ、月行(菊田廣道)と月心(村上光清)とがそれぞれ第五世として並立することになります。そして、この二つの教派のうち前者を継いだのが食行身禄でした。
 食行身禄は本名を伊藤伊兵衛といい、伊勢国一志郡川上村の農家に生まれました。彼は幼くして江戸の呉服商に奉公し、成長してからは油を売って巨万の富を得たと言われています。ただし、彼はその成功に威を張ることなく、同郷の人の勧めで月行の弟子となってからは財を捨てて精進したのでした。そして、享保十八年(一七三三)六月、彼は突如、母なる富士山中で入定仏になることを決意します。
 身禄が入定を決意した背景には、一見華やかで豊かに見える江戸社会の陰の部分があったとされています。その頃ちょうど、後世には明君と称えられた徳川吉宗公の治世でしたが、人びとが鼓腹をうって泰平の世を謳歌していると評された時代の裏側には、実は、年貢の増徴や物価の高騰、あるいは度重なる飢饉にあえぐ貧しい庶民の暮らしもあったのです。身禄は、こうした貧しい人びとを全てを入定仏になって救済しようと考えたのでした。私たちの丸参十条伊藤講も、元来はそうした身禄の万民救済思想に共鳴する人びとが結成したものです。
 丸参十条伊藤講の結成時期は定かではありませんが、私たちが所有する冨士塚の頂上には明治十四年建立の石祠があり、そこには「明和三丙戌年十二月吉日 醍醐久□□」と刻されています。「醍醐久□□」とあるのは、江戸時代に先達・講元を世襲したとされる醍醐久兵衛のことと思われます。そして、この石祠は、久兵衛が明和三年(一七六六)十二月に建立したものを明治十四年に新しく建て替えたものではなかったかと推察されます。そうしたことから、私たち講中は、丸参十条伊藤講が明和三年前後には既に結成されていたものと考えています。
 ところで、十条冨士塚では、例年、富士山の山開きに当たる七月一日を大祭日と定め、前日より祭礼を執行しています。そして、たくさんの出店で賑わう大祭日には、お産や子育てにも霊験ありとされる当社に多くの方が登拝し、出店で売られる麦藁蛇(厄除けの護符)を買い求めていかれます。この麦藁蛇については、江戸幕府が編集した『新編武蔵風土記稿』の「冨士浅間社」という項に由来を示す次のような記事があります。
 例祭毎年六月朔日。(中略)麦藁ヲモテ作リシ蛇ヲ売ル。是ハ宝永ノ頂上駒込村ノ民三左衛門ナルモノ売ハジム。或書ニ、宝永年中近郷大ニ疫病流行セシニ。此蛇ヲ買モテルモノハ。其一家疫病ノ患ナカリシ故。モテハヤサレ。今ハ当所ノ名物トナレリト。
 また、『江戸名所図会』にも「毎歳六月朔日、祭礼にて前後より詣人多く道路に充り、此の産物として麦藁細工の蛇(中略)を鬻く」とあります。創始者については諸説あり定かでないようですが、麦藁蛇は富士塚とともに江戸時代の祭礼の雰囲気や信仰のあり方を今に伝える貴重な文化遺産であるともいえましょう。
 最後になりますが、私たち丸参十条冨士講中は、こうした伝統の正統な継承者として、十条地域に育まれた郷土の思想を大切に受け継いでゆきたいと考えています。
     講中

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以下、写真および雑感

 冨士神社は、都道460号線(江戸時代の日光御成街道・岩槻街道)沿いにあります。冨士塚の東側を通る街道に正面を向けています。
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 都道460号線と冨士塚、南側の建物の間の狭い土地は、「北区立中十条二丁目児童遊園」になっています。冨士塚の南側の建物は富士学院というダンス練習場のようです。名前は神社と関連があるのでしょうか?
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 冨士塚の北側も道路になっています。道路に歩道をつけるために、少々冨士塚を削ったように見えます。
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 正面には鳥居があり、石段が上へと続いています。手摺りに囲まれ石造物には近づけないようになっています。危ないですから当然と言えば当然ですが。
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 石段の脇に水盤が二つあります。
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 冨士塚には多数の石造物があります。
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 鳥居のある東側正面の石段を上ります。
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 石段の途中、脇に狛犬がいます。
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 冨士塚の中腹、北側に小御岳神社と思われる石祠が見えます。
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 石段の一番上には、狛犬か何かがいたようですが、残念ながら欠けてしまって判然としません。
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 上から見下ろすとそれなりの高さがあることがわかります。
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 頂上はちょっとした平場になっています。
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 大きな木が枝を広げています。冨士塚の上という特殊な場所に、普通の神社のような木陰をつくりだしていることに感心しながらも、場所が場所だけにちょっと心配にもなります。
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 本殿?になるのでしょうか、石祠が頂上の奥にあります。
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 頂上から南側を覗くと、コンクリートの板が土留めのためにか置かれています。石柱が一本立っていますが、古い鳥居の柱でしょうか?
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 東側正面からの石段とは別に南東方向にも石段があります。
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 この神社のお祭りは盛大におこなわれるようで、ネットで調べていると例祭日のまったく違った雰囲気の冨士塚の姿を見ることができます。
 また、都道の拡幅に伴う移転?計画もあるようです。単純な取壊しなどということは、よもやないとは思いますが、古い石造物だけどこかに保存しても祭りなどの習俗と切り離されてしまえば、その石造物は単なる遺物になってしまいます。現在の生きた冨士塚を生かし続けなければそれは無意味な行為となります。きちんとした形で保存なり、移転なりして、冨士塚とその祭り、地域の象徴としての機能を維持させて欲しいものです。



写真撮影:平成24年02月19日
by st22 | 2012-08-16 16:44 | 寺社