七社神社 (北区西ケ原2丁目)
住所:北区西ヶ原2丁目11-1
祭神:伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度賣命、市寸島比賣命
仲愛天皇、応神天皇
例祭日:例祭 9月22日・23日
歳旦祭 1月1日、節分祭追儺式 2月3日、紀元祭 2月11日、祈年祭 2月17日
中祭 5月1日、大祓式 6月28日、6月初めから7月7日まで茅の輪くぐり
七五三 11月15日、新嘗祭 11月23日、天長祭 12月23日、大祓式 12月28日
焼納祭・除夜祭 12月31日
境内社:天祖神社(一本杉神明宮)、稲荷神社、熊野神社、菅原・三峯神社、疱瘡社
由緒:
七社神社 北区西ヶ原二-十一-一
七社神社の祭神は、伊邪那岐命・伊邪那美命・天児屋根命・伊斯許理度賣命・市寸島比賣命・帯中日子命(仲愛天皇)・品陀別命(応神天皇)です。由来については、寛政五年(一七九三)の火災により、社殿古記録一切が焼失したため、よくわかっていません。『新編武蔵風土記稿』には「村ノ鎮守トス…」と記され、また、『江戸名所図会』には、無量寺の高台に描かれ、再建後も別当寺であった無量寺の境内に祀られていたことがわかります。明治のはじめの神仏分離に際して現在地である一本杉神明宮社地に移され、西ヶ原村の総鎮守として奉祀されるに至りました。
末社には天祖神社(一本杉神明宮)・稲荷神社・熊野神社・菅原神社・三峯神社・疱瘡社があります。一本杉神明宮は、もともとこの地にあった神社ですが、七社神社の移転により、末社となったものです。現在、切株が残っている杉の古木は、その神木です。
旧社務所は、村の青年会の発起で、渋沢栄一・古河市兵衛を筆頭とする諸氏の寄付により、大正九年(一九二○)に建てられたもので、公会堂を兼ねたものでした。
この境内から隣地にかけての一郭は、七社神社裏貝塚として知られた遺跡で、縄文式土器・弥生式土器・土師器などが発見されています。
平成二十四年三月 東京都北区教育委員会
境内設置説明板より。
七社神社のウェブサイトにも同様の由緒が記されています。ウェブサイトには、そのほか七社神社についての各種案内や七社神社の宝物として木戸孝允・坂本龍馬書簡などの写真が掲載されています。
また、北区観光ホームページや東京都神社庁のサイトでも簡単に紹介されています。
以下、写真および雑感
七社神社は、飛鳥山公園の近くにあり、一の鳥居は本郷通りに面して立っています。
この通りは江戸時代の日光御成道にあたります。ここには一里塚があり史跡となっています。鳥居の横には一対ある一里塚の北側の一里塚があり、こちらに説明板が設置されています。南側の一里塚は、現在の道路の中央分離帯部分にあり、石碑が置かれています。
北区教育委員会による説明板には以下のように記されています。
国指定史跡(大正十一年三月八日指定)
西ヶ原一里塚 北区西ヶ原二-十三・四先
慶長九年(一六○四)二月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。
西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道の二番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。
旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題する大正五年六月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑には、こうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。
平成七年三月 東京都北区教育委員会
北区飛鳥山博物館のウェブサイト(西ヶ原一里塚)で西ヶ原一里塚について詳しく解説しています。また、北区観光ホームページ(西ヶ原一里塚)にも簡単に紹介されています。
一里塚の説明板のとなりに石碑についての説明版も設置されています。こちらについては北区飛鳥山博物館(二本榎保存之碑)のサイトに全文があります。
一里塚のとなりにある一の鳥居です。昭和九年(1934年)の奉納です。
一の鳥居付近の参道は、ごく普通の車道です。少し先に玉垣に囲われた境内が見えます。
二の鳥居から玉垣に囲まれた境内になります。木々の緑がきれいです。
右側には、表の道路から見えるように玉垣奉献の記念碑があります。
左側にある看板には、祭神・祭日・禁制が書かれています。
ニの鳥居をくぐってすぐ左側に、日露戦役記念碑があります。裏面には出征軍人の名前が記されています。
境内は正面入口から西側に大きく広がり、こちら側には境内社や舞殿があります。
参道の右側には、手水舎があり、境内の東端には神輿庫があります。
手水舎です。龍の額が奉納されています。
拝殿前の狛犬は明治二十六年(1893年)奉納です。
拝殿です。いつごろの建築かわかりませんが木造で重厚な感じがします。
社号額は「子爵澁澤榮一翁揮毫」とのことです。
拝殿前にある天水桶は、明治二十七年(1894年)の奉納です。拝殿の雨樋から雨水を直接引いています。
拝殿の左側には、古札納所と孔子像・孟子像があります。その後ろには、社殿と社務所をつなぐ廊下が見えます。
古札納所には、他の境内社にあるものと同じような小さな賽銭箱がつけられていますが、境内社のものには「賽銭」と書かれているのに対し、こちらには「報賽」と書かれています。
男爵古河家寄進の孔子像と孟子像です。
社殿の左側の奥まった所に社務所があります。
この神社は、二の鳥居が社殿へ続く境内の正面の入口になっていますが、境内南西側に、もう一つの入口になっている鳥居があります。他の鳥居が明神鳥居であるのに対し、この鳥居は神明鳥居になっています。この鳥居が天祖神社(一本杉神明宮)のための鳥居だからでしょう。
神明鳥居の先、左側には舞殿があります。
神明鳥居の正面に、天祖神社(一本杉神明宮)があります。社は、小さいながらも神明造になっています。
社の前に天祖神社(一本杉神明宮)についての北区教育委員会と七社神社による説明板があります。教育委員会の説明は、北区飛鳥山博物館のサイト(旧一本杉神明宮社地)に全文があります。
天祖神社の前には、小さな狛犬がいます。
社の裏に屋根をかぶせた一本杉の切り株があります。
天祖神社の左側には、熊野神社があります。
熊野神社前の狛犬です。
疱瘡社です。熊野神社の脇にあります。
稲荷神社です。天祖神社の右側にあります。
稲荷神社の右隣には、三峯神社と菅原神社があります。
これらの境内社は、境内の西北側にまとまってあります。
境内社の近く、円形の柵の中に大きな公孫樹の神木があります。
神木のある柵の中には二つの石碑があります。こちらは、「大鳥居建設の碑」です。
こちらは、「七社神社 御鎮座百年記念碑」です。
緑多い神域に、見所も多い神社です。
境内の様子です。
写真撮影:平成24年08月28日