諏訪神社 (北区赤羽北3丁目)

諏訪神社 (北区赤羽北3丁目)
e0163471_17575157.jpg

住所:北区赤羽北3丁目1-2




祭神:建御名方命

例祭日:例大祭 8月後半の土日
    元旦祭 1月1日、祈念祭 2月27日、水神社例祭 6月15日
    夏越の大祓 6月27日、新嘗祭 11月27日、年越の大祓 12月27日

境内社:須賀神社、稲荷神社、大六天神社、稲荷神社、八幡神社、猿田彦神社、白山神社

境外社:水神社[水神宮 (北区赤羽北2丁目)]

由緒:
東京都北区赤羽北三丁目鎮座
 諏訪神社
 祭神 建御名方命
  由緒
当社は、別当寺であった真頂院の寺伝によれば、応永参年(一三九六年)九月同院第一世秀善和尚が創立したものと伝えられております。かって社前に袂杉と呼ばれた名木があり、この神社の神木となっていました。これはいつの頃か真頂院の和尚が諏訪(長野県)から両方の袂に入れて持って来た杉苗をこの神社の前と後に植えたものゝうちの前のものと伝えられています。
 現在この切株が本殿の裏に移されて残っています。
 新篇武蔵風土記稿には、この神社の末社に丸山権現と山王社があり、丸山権現がかっての袋村の鎮守で後にこの神社に改められた事や、山王社の傍の石碑(山王権現の石碑)寛政拾貮年(一八○○年)建立に建久五年(一一九四年)勧請と彫られているが、その出所は不明であることが記されています。
     昭和五拾七年八月貮拾貮日

 境内設置説明板より。
e0163471_1815777.jpg


 上記の説明内容と重なりますが、境内には北区教育委員会による説明板も設置されています。
諏訪神社
     北区赤羽北三-一-二
 祭神は建御名方命です。別当寺であった真頂院(足立郡川口宿錫杖寺末寺)の寺伝によれば、応永三年(一三九六)九月、同院第一世秀善和尚が創立したものだそうです。末社には、稲荷神社二社、八幡神社、須賀神社、白山神社、猿田彦神社があり、それぞれ、宇迦之御魂命、品陀和氣命(応神天皇)、須佐之男命、伊邪那岐命、猿田彦命を祀っています。
 『新篇武蔵風土記稿』には、神社の末社である丸山権現がかつての袋村の鎮守で、後にこの諏訪神社に改められたことが記されています。
 かつて社前には、袂杉と呼ばれた名木があり、神社の御神木にもなっていました。これは、真頂院の和尚が、諏訪(長野県)から両方の袂に入れて持ち帰り、神社の前後に植えた杉苗の内の一つでした。
 現在御神木の切株は、本殿の裏に移され、残っています。
  平成十四年十月    東京都北区教育委員会

e0163471_1862236.jpg


 北区飛鳥山博物館(諏訪神社)に上記のものと同じ説明があります。

 諏訪神社は、赤羽八幡神社 (北区赤羽台4丁目)の兼務社となっており、赤羽八幡神社のウェブサイト諏訪神社の紹介がされています。



以下、写真および雑感



 諏訪神社の参道は、穀蔵稲荷 (北区赤羽北1丁目)の前の稲荷の坂を経て武蔵野台地の端を西にのびる通り[諏訪通り]から枝分かれするようにはじまります。
e0163471_185463.jpg


 参道に入るとすぐに社号碑があります。昭和十五年(1940年)の建立で、陸軍中将 鹿野澄による揮毫です。
e0163471_186250.jpg


 簡易に舗装された参道が続いています。鳥居の跡らしきものがあり、かつてはここに一の鳥居があったと思われます。
e0163471_1864227.jpg


 参道の脇に五基の石造物があります。『袋村の庚申待供養塔群』です。
e0163471_187470.jpg


 北区教育委員会による説明板があります。
 袋村の庚申待供養塔群
      諏訪神社所在
 諏訪神社の社地には、袋村の人々が造立した七基の庚申待供養塔があります。庚申待供養塔は、庚申塔とも通称され、最初は村の各地にありましたが、神社が真頂院を別当寺とする袋村の鎮守なので、次第に現在の地に移設されました。
 この参道には、最も右側にある塔を除いた計四基の青面金剛立像庚申待供養塔がありますが、これらは元禄十六年(一七○三)一一月から天明五年(一七八五)一□(破損)月までの間に造立されたものです。いずれも、塔の中央には鬼を踏みつける青面金剛立像が刻まれ、両側面には、塔を造立した趣旨や造立年代が刻まれています。また、その下には、塔を造立した袋村の人々の名前が刻まれています。
 人の体内には三尸という虫が住み、僅かな過ちをおかしても体内から抜け出して天帝に悪事を告げ、これを聞いた天帝が人の命を縮めてしまうという信仰があります。三尸が天に抜け出すのは干支でいう庚申の日の睡眠中だと信じられていましたので、この日の夜、人々は虫が体内から抜け出ないように一ヶ所に集まって徹夜で呪術儀礼と共同飲食の会を催しましたが、この会は、また、村の人々の楽しい交歓の場でもありました。
 庚申塔は、こうした庚申信仰による集会の記念に建てられたもので、当時の人々の信仰や交流の在り方を偲ばせてくれます。
 平成三年三月     北区教育委員会

e0163471_1873737.jpg


 庚申塔です。
e0163471_188974.jpg


e0163471_1882178.jpg


e0163471_1883589.jpg


e0163471_1884933.jpg


 右端にある一基は庚申塔ではいようです。「奉唱光明真言百萬遍供養塔」と彫られています。
e0163471_189485.jpg


 参道は階段を経て本殿の方向へ続いていきますが、間を車道が横切っています。昔は、車道のための切り通しもなく、まっすぐに続いていたものと想像されます。
e0163471_1893836.jpg


 諏訪神社の南東角に「諏訪神社前交差点」があります。
e0163471_1810787.jpg

 諏訪神社正面を横切って参道を分断する坂道は、北へ下り北赤羽駅、新河岸川へと至ります。この坂の途中に『宮の坂』の標柱が立てられています。
 坂の名前にある「宮」は、この地域の旧村名である袋村の鎮守、諏訪神社のことを指してあり、坂道はこの神社の参道を経て赤羽方面へと抜けていきます。
 神社の二の鳥居前にも切通しの坂がありますが、これは新しく出来た坂で、宮の前の坂と呼ばれています。この坂も宮の坂と同様に交通量が多い坂です。

e0163471_18144717.jpg


 標柱の位置から素直に判断すれば神社の参道を横切る坂が「宮の坂」かと思われるのですが、少し調べてみると、坂の位置関係などが少々混乱気味です。『坂に参道を分断された諏訪神社 ~「宮の坂」と「宮の前の坂」~』にて紹介されていたサイトなどを読んでみました。
 詳しくは下記で紹介する、ウェブサイトを見てもらうとして、それぞれ、「宮の坂」と「宮の前の坂」の位置の解釈が異なっています。
e0163471_18291391.jpg

『坂道散歩』では、を無名の坂、を「宮の前の坂」、を「宮の坂」としています。
『東京23区の坂道』では、を「宮の坂」、を「宮の前の坂」、は記述無しです。
『坂学会』坂プロフィール、宮の坂宮の前の坂では、を「宮の前の坂」、は記述無し、を「宮の坂」としています。坂のプロフィールの文章による記述ではいま一つ位置が特定しづらいのですが、地図では前記のようになっています。
『坂に参道を分断された諏訪神社 ~「宮の坂」と「宮の前の坂」~』追記追追記[上記の『坂学会』に投稿された研究発表]では追記で位置を修正し、を「宮の前の坂」、を「宮の坂」、を裏の小道としています。

 下の写真がの坂道です。
e0163471_1840190.jpg



 なぜこんなに混乱してしまったのでしょうか?北区による「宮の坂」の標柱の位置が問題なのかもしれません。
 私が、『坂に参道を分断された諏訪神社』の追記で紹介されている『北区郷土資料館シリーズ:坂道編』や以前の標識の記述から考えると、が「宮の坂」で、が「宮の前の坂」、つまり『坂学会』坂のプロフィールの地図に示されている解釈が正しいのではなかろうかという結論に至りました。
 『坂に参道を分断された諏訪神社』の筆者は『北区郷土資料館シリーズ:坂道編』にある「諏訪神社の参道でもあり」という「宮の坂」の記述に疑問を感じられて「裏の小道」ではなく、諏訪通りの坂を「宮の坂」と考えられたようですが、「袋村と赤羽台を結ぶ坂」という表現があてはまるのは、新坂である「宮の前の坂」が出来るまでは「裏の小道」だけだったのではないでしょうか? また「裏の小道」がかつては袋村と赤羽台を結ぶ唯一の道であったならば、地図上で見ると折れ曲がっていて参道らしくなくとも、袋村の住民にとっては諏訪神社への参道に違いありませんから、「諏訪神社の参道でもあり」という記述とも矛盾はないように思います。
 また、諏訪通りの坂は、諏訪神社前交差点の切り通しが出来るまでは、わざわざ名付けるほどの坂ではなかったのではないかと推測します。
 混乱の原因は標柱の位置に加えて、北区による標柱にある「二の鳥居」という記述にもあるのではないでしょうか。現在諏訪神社には、二つの鳥居がありますが、かつては参道の入口に鳥居が有ったようでその痕跡が残されています。この痕跡の鳥居を「一の鳥居」とするならば、現在拝殿正面にある鳥居、つまり①の坂に面した鳥居が「二の鳥居」となりますが、現状を優先して、の坂に面したこの鳥居を「一の鳥居」とすると、の坂の通りに面した脇の出入り口にある鳥居を「二の鳥居」と呼びたくなります。しかし通常は、主要な参道にあり、順番にくぐる鳥居を「一の鳥居」「二の鳥居」と言うふうに呼び、他の脇の出入り口の鳥居にわざわざ数を付けることはないように思うので、個人的にはこの鳥居を「二の鳥居」と呼ぶのは違和感があります。
 以上、思ったことを好きに書かせてもらいましたが、何事かを断定するほど深く調べたわけではないので、素人の戯言と聞き流して下さい。また、上記サイトの方々が苦労して調べられた資料が使用させてもらっていますので、その労に敬意を表したいと思います。



 諏訪神社の紹介に戻ります。
 分断された参道を交差点の横断歩道に迂回して進むと、境内に入る階段があります。切り通し反対側の斜面はいたって普通のブロック積みなのですが、こちらは低い石垣に植え込みのある斜面になっています。階段の上に鳥居があります。大正十五年[1926年]の鳥居です。
e0163471_1918933.jpg


 階段の右脇には、諏訪神社の看板(?)があります。中央には「梶の葉」紋が描かれています。インターネットでちょっと調べてみたところ、この紋は諏訪神社の神紋としては各所の諏訪神社で一般的に使われているようですが、諏訪神社の総本社である長野県の諏訪大社で使われている神紋「諏訪梶の葉」とは意匠がかなり違います。
e0163471_19184514.jpg


 石段を上り境内に入ります。燈籠は石段の脇に置かれています。大正四年[1915年]御大典記念として奉納されています。切り通しのせいかちょっといびつな配置になってしまってるようです。
e0163471_1919879.jpg




 石段を上がると正面に拝殿があります。
e0163471_19192673.jpg


 拝殿の手前には御神木があり、その脇に猿田彦大神と彫られた石碑があります。明治十一年[1878年]に村講中によって建てられているようです。猿田彦大神とありますので、これも庚申塔の一つでしょうか?
e0163471_19194245.jpg

e0163471_19195881.jpg


 拝殿前の狛犬です。
e0163471_1920152.jpg

e0163471_19202977.jpg


 木造の社殿は重厚さを感じます。銅葺き屋根もきれいな緑青になっています。
e0163471_19251554.jpg

e0163471_19253049.jpg

e0163471_19254452.jpg


 社殿を側面から見ると、拝殿は入母屋造りですが、本殿は切妻平入りの二階建てとなっています。
e0163471_19255884.jpg




 境内入口に戻って、石段の右側には、神楽殿があります。
e0163471_19262268.jpg


 神楽殿の奥には、小さな塚があり植え込みになっています。石畳の通路が拝殿の横を抜けて奥へと続いています。
e0163471_19263848.jpg


 石畳の横には掲示板があるのですが、その後ろに隠れるように、掲揚台と石碑があります。
e0163471_19265242.jpg


 石碑は、「明治三十七八年戦役記念碑」です。「明治三十七八年戦役」は日露戦争の正式名称ですね。
e0163471_192773.jpg




 石畳にそって奥に進むと、境内社の社があります。右がわの小さな社には白山神社と猿田彦神社がそれぞれ祀られ、左側の大きな社には、八幡神社・稲荷神社・大六天神社・稲荷神社・須賀神社が祀られています。諏訪神社のウェブサイトや北区教育委員会の境内社の説明と違いがあるのですが、新しく祀られたのでしょうか?
e0163471_19272613.jpg


 さらに奥には神輿庫があります。
e0163471_19282391.jpg


 境内の隅に「神輿奉安庫建設請負記念」の石碑があります。昭和九年[1934年]のものです。奉納そのものではなくて、建設請負を記念したものなんですね。
e0163471_1928436.jpg




 正面の参道の左側[南側]は境内が開けています。石段の脇には手水舎があります。
e0163471_1929438.jpg


 境内南東端付近には石造物がいくつかあります。
e0163471_19292456.jpg


 左端から、「村上講 冨士登山記念碑」昭和五年[1930年]です。
e0163471_19294028.jpg


 「庚中」とかいてるのでしょうか?「中」の字が微妙な気もしますので、略字かなにかでしょうか?さらに土に隠れていますが文字が続いているようです。読み取りづらいのですが、天保十一年[1840年]のもののようです。この石造物は、道標になっていたようで東西南北にそれぞれ行き先が彫られています。付近のどこからか移されたのでしょうか?
e0163471_1930865.jpg


 こちらは青面金剛立像庚申塔のようです。
e0163471_19302571.jpg


 中央には「奉納大乘妙典日本囘国二世安楽~」と彫られています。明和二年[1765年]に建てられています。六十六部の回国供養塔でしょうか?
e0163471_19304454.jpg


 八日講と書かれているのでしょうか?その後の漢字はなんでしょう?
e0163471_19314443.jpg


 「石坂供養塔」と彫られています。どういう意味でしょうか?天保七年[1836年]のものです。
e0163471_1932436.jpg


 上部に「武州御嶽山」中央に「太々神楽記念碑」とあります。裏面には講員の名前等が彫られていますので、御嶽講による記念碑でしょう。昭和三十五年[1960年]に建てられています。
e0163471_19322857.jpg


 端にあるのは、「石垣記念[碑?]」です。昭和四年[1929年]に奉納され、上に「御大典」とあります。
e0163471_19332453.jpg




 石碑等が並んでいるところの近く、神社の南側、諏訪通りに面して境内への出入り口があります。
e0163471_19334925.jpg




 境内の南西側には社務所があります。
e0163471_193486.jpg


 社務所と社殿の間には、「諏訪神社境内の水準点」があります。
e0163471_19342777.jpg


 説明板には以下のように記されています。
  諏訪神社境内の水準点
 諏訪神社境内には、標石型の水準点が設置されています。明治九年[1876年]以来、内務省は国土の測量のため、水準点の設置をおこなってきました。
 水準点とは、水準測量を行う際に基準とする点です。境内の水準点標石をよく見ると、それぞれの面に「内務省」「昭和五年」「荒川」「不B.M.1」と刻まれているのが判ります。「不」の字に見えるマークは「几(き)号」といって「不」の字の横棒が標高を表します。「B.M.」とは、水準点を表す英語「ベンチマーク」の頭文字で、そのあとの1は1号を表し、「荒川1号水準点」という意味合いになります。実はこの水準点は、それまでに内務省が設置した荒川筋の水準点を補完する目的で、昭和五年[1930年]に新たに荒川筋に設置された十五ヶ所(内二ヶ所は入間川筋に設置)の水準点の一つです。記録によれば、諏訪神社境内の基準点を1号とし、荒川の上流方向に向かって水準点の設置が行われています。

 [ ]内年号ブログ作成者注記
e0163471_193617100.jpg




 境内の西端部分は生垣で入れないようになっており、木々が生い茂っています。
e0163471_19363758.jpg


 生垣の中に、縁起に紹介されている袂杉の切株があります。
e0163471_19365431.jpg

e0163471_1937877.jpg


  旧御神木の袂杉(たもとすぎ)
正面奥にある、鉄板を鍋状にした覆いが取り付けてある切り株が、旧御神木の袂杉です。当神社の創立者である真頂院第一世秀善和尚が出身地の諏訪から二本の杉苗えを着物の袂に入れて持参し、社殿の前後に一本ずつ植えたそうです。一本は早くに枯れてしまい。残りの一本は御神木として境内に残りましたがやはり傷みが激しく、昭和三十六年八月十五日に、地上一七○センチの所で伐られました。
この切り株は、直径が約一三三センチあり、切り株の断面が腐らないように覆いがされ、現在の場所に移されました。

e0163471_19374825.jpg


 切り株の隣によくわからない文字が彫られている石碑があります。私には、まったく読めないのですが、諏訪神社のことをインターネットでいろいろ調べていると、この石碑について書かれたサイトがありました。浮間わいわいネットに諏訪神社の説明があり、その中で「インド国王の銘がある碑」として紹介されていました。説明によると、彫られているのはバングラ語(ベンガル語)の文字で、庭石として置かれたものなので特にいわれはないとのことです。
e0163471_19395438.jpg




 この神社は、特に大きな神社というわけでも、有名な神社というわけでもありませんが、調べて見ると、さまざまな疑問や興味を与えてくれる神社でした。石造物などは調べると面白そうですね。



 境内の様子です。
e0163471_19405410.jpg

e0163471_19411065.jpg




写真撮影:平成24年11月25日、平成25年05月19日
[PR]
by st22 | 2013-05-30 17:59 | 寺社