幸神社 (文京区関口2丁目)

幸神社 (文京区関口2丁目)
e0163471_16112120.jpg

住所:文京区関口2丁目




祭神:はっきりとしたことはわかりませんでしたが、『江戸名所図会』の頃から変わっていなければ「猿田彦大神」です。

由緒:詳細はよくわかりませんでしたが、『江戸名所図会』には以下のように記されています。
幸神祠 同所東の方、道を隔てて右側にあり。道山の幸神、あるいは駒塚の社とも号く。祭神は猿田彦大神なり。庚申の日をもって縁日とす。社司は宮城島氏なり。相伝ふ、往昔このところに豪民あり(いまもこの辺りを長者の廓といふ)。金の駒を塚に築き籠め、榎樹を栽ゑて、かしこに幸神を勧請す(当社の神体は、昔この麓入江なりし頃、その水中より出現ありしゆゑとて、いまもなほ全体に蠣殻の類付きてありといふ)。古へこの辺鎌倉海道なりしゆゑに、道山の号ありとぞ。中古おほいに荒廃して、神木の榎の下わづかの叢祠のみ存せしを、その頃の神主政泰なる者、いまのごとく祠を営み建つるといふ(里諺にいふ、延宝[一六七三-八一]の頃金の駒の精あらはれ出でて、この辺の田畑をあらす。里民これをみること数度なり。追ふときは山谷に隠る。その谷を駒が谷と唱ふ。また橋の上にてその駒の行方をみうしなふゆゑに、その橋を駒留橋といふなり)。

『新訂 江戸名所図会4』ちくま学芸文庫より。

 現在、駒留橋はありませんが、少し上流側移動して水神社 (文京区目白台1丁目)の前に駒塚橋が架かっています。駒留橋のいわれについては他にも説があります。



以下、写真および雑感



 幸神社は、目白坂を上がったところにある小さな神社です。
e0163471_16143254.jpg




 鳥居の脇には、社号碑や灯籠があります。
e0163471_16144390.jpg

e0163471_16145168.jpg




 左側にある水盤は、明治二十年(1887年)の奉納です。前面には「幸神宮」と彫られています。
e0163471_1615167.jpg




 「幸神社 改修奉賛者御芳名」があります。平成二十年に改修されたことがわかります。小さな神社ですが、大きな企業の関係者も名を連ねていますね。
e0163471_16151972.jpg




 狛犬です。
e0163471_16152751.jpg

e0163471_16153430.jpg





 社殿は小さいながらも手の込んだ造りです。床下には「亀腹」になっています。
e0163471_16154442.jpg

e0163471_16155365.jpg


 神額に揮毫している一戸兵衛は、日露戦争の旅順攻囲戦で勇名をはせた軍人で、陸軍大将にまで昇り、現役を退いて後は学習院院長、明治神宮宮司、帝國在郷軍人会会長などを勤めた人です。この人の揮毫は各所にあるようですね。
e0163471_1616232.jpg




 社殿の横に、石碑があります。なんと書かれているのでしょうか?
e0163471_16161162.jpg




 神社のすぐ横には、旧町名案内があります。
 旧町名案内
旧 関口台町 (昭和41年までの町名)
 もと、関口村の内で畑地であった。天和2年(1682)町屋を開き、享保5年(1720)から町奉行支配となった。
 町名は関口村の高台(目白台地)にあったので、関口台町と称えたといわれる。関口の名称は、むかしこの辺りに奥州街道の関所があったからとも、また神田上水の分水のための大洗堰があったからともいわれている。
 明治5年、旧細川越中守、黒田豊前守(現・椿山荘)、柳生播磨守ほかの武家屋敷地および寺地を併せた。
 目白台下に、松尾芭蕉ゆかりの芭蕉庵がある。西隣の胸突坂下には、神田上水の守護神であった水神社がある。
 芭蕉庵や水神社の一帯を椿山といった。鎌倉合戦のころこの辺りに伏兵を入れたとあり、そのころから椿が多かった。

e0163471_16163599.jpg




 神社脇の電柱にある看板のとおり、結婚式場や庭園で有名な椿山荘まで幸神社から100mほどです。
e0163471_1617295.jpg


 道の先には、カトリック関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂)の鐘塔が見えます。
e0163471_16173128.jpg




写真撮影:平成25年11月24日
[PR]
by st22 | 2014-05-09 16:16 | 寺社